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国関係
国指定天然記念物(動物) オカヤドカリ
指定年月日: 昭和45(1970)年11月12日
沖縄県で生息の確認されているオカヤドカリ属は、オオナキオカヤドカリ(宮古・八重山諸島)、ナキオカヤドカリ、ムラサキオカヤドカリ、オカヤドカリ(沖縄・宮古・八重山諸島)、コムラサキオカヤドカリ(八重山諸島)の5種類であるが、サキシマオカヤドカリが八重山諸島の黒島で一例だけ確認されている。それを加えると合計6種のオカヤドカリ属が県内に分布していることになる。コムラサキオカヤドカリは、宮古諸島では池間島から一例だけ確認されているが今後の調査によって他の島からも見つかるかもしれない。オカヤドカリ属は、主に海岸や海岸林の近くに生息しており、産卵(放幼)のため一時的に海に下りるが、幼生期を海ですごして陸に上がった後は、陸上で生活する。(地域を定めず指定)
国指定天然記念物(動物) カラスバト
指定年月日: 昭和45(1970)年11月12日
沖縄島北部山地、慶良間諸島、宮古諸島、八重山諸島の常緑広葉樹林に生息する。宮古、八重山諸島のものはヨナクニカラスバトとして別亜種になっている。全身黒色だが、日に当たると金属光沢のあざやかな色彩が観察される。国内のハト類では最大。鳴き声は特徴的で、ウッウー、ウッウー、モーウ、モーウ、またはグルグルー、グルグルーと間を置いて二声ずつ鳴き、時には牛の鳴き声に似る場合がある。繁殖期は長く2~9月頃で、樹上に枝を粗雑に組み合わせた巣をつくり、通常純白の卵を1個産む。餌は主に樹木の実を食する。目撃は極めて稀。個体数は少ないようである。本種よりひとまわり大きかったリュウキュウカラスバトは、1936年を最後に目撃の例がなく、絶滅したと思われる。(地域を定めず指定)
国指定天然記念物(動物) リュウキュウキンバト
指定年月日: 昭和47(1972)年5月15日
宮古島、石垣島、西表島、鳩間島、与那国島に生息する固有の亜種。全長25cmの金緑色の金属光沢のある翼をもつ美しい小形のハト。頭部は青灰色、額から眉斑の付近までは白色、胸から腹にかけては紫がかった灰色。腰には2本の灰色の線がある。また、くちばしと脚は赤色の美しい色彩をしている。日中は密林中で生活し、日の出や日没の頃になると林道や草原、農耕地にも飛来し採餌をする。餌は主として植物質であるが時には昆虫も食べる。巣は樹木の小枝等で、地上からそう高くない樹上につくり、クリーム色の卵をふつう2個産む。南中国からオーストラリアの北部にかけて広く分布するが地域毎に少しずつ差があり11の亜種に分類されている。(地域を定めず指定)
国指定天然記念物(動物) イイジマムシクイ
指定年月日: 昭和50(1975)年6月26日
ウグイスとほぼ同じ大きさで、その形も似ている渡り鳥。翼5.8~6.5cm、くちばし1.1cm、尾4.5cm、ふしょ1.9cm内外。額、頭上、後頭は灰色を帯びた暗緑色。のど、胸、腹は乳白色で額から後頭まで明瞭な黄白色の眉斑がある。山林や低地の雑木林・竹やぶ等にすみ、梢近くの枝葉の間をあちこちと敏捷に渡り歩きつつ餌をあさる。ときには林間の地上や岩の上などで餌を探すこともある。樹上または竹上の低い枝に枯葉、コケ等を巣材として粗雑な巣をつくり、3~4個の白色の卵を産む。餌は昆虫やクモなどであるが、雑草の種も食す。ウグイス亜科に属する日本の固有種で、夏鳥、として3月下旬から4月上旬に伊豆諸島に渡来して繁殖し、11月には他の地域へ飛び去る。旅鳥として沖縄島・宮古島・与那国島などに渡来した記録がある。
(地域を定めず指定)
国指定天然記念物(動物) キシノウエトカゲ
指定年月日: 昭和50(1975)年6月26日
指定年月日: 昭和50(1975)年6月26日
宮古諸島・八重山諸島の全域に分布している固有種。体長約40cmに達する、日本産トカゲの中では最大の種類。背中は褐色で腹面は黄白色。成熟した雄の頭部は大きくて幅広い。繁殖期になると、雄の頬には鮮やかな紅色の婚姻色が現れる。幼時は、背中は暗紫色で7本の淡白色のストライプがあり、尾の先端は青色を呈する。しかし、幼時は他の同属のトカゲと似ており、野外で一見しただけでは、その見分けはむつかしい。雌は、成体になっても幼時の体型を残しており雌雄の区別は容易である。また雌は産卵するとその卵とともにしばらく巣穴の中で抱卵をしているようだ。低木林、農道、草地や海岸林等比較的開けた所でよくみられる。しかし、各離島にイタチ類が導入されたために、激減が目だってきた。(地域を定めず指定)
国指定重要無形文化財(工芸技術) 宮古上布
指定年月日: 昭和53(1978)年4月26日
宮古上布は、16世紀末、栄(えい)河(が)氏(うじ)真(しん)栄(えい)の妻・稲石(いないし)によって創製されたと伝えられている。1637年に人頭税として上納布に定められて以来、精巧な織物であることが要求された。その伝統技術が今日に至るまで継承されて宮古上布を性格づけている。苧麻繊維を糸とする織物で、越後(えちご)上布(じょうふ)・小千谷(おぢや)縮(ちぢみ)(昭和30年国指定)と並んで我が国の上布の代表的存在といわれている。製作形態は苧麻の手績みによる糸つくり、染め、機織り、洗濯(仕上げ加工)、ぬき(補修)等の分業制になっており、それぞれ専門の技術者が高度の技術を伝承している。 (保持団体:宮古上布保持団体)
国指定史跡 大和(やまと)井(がー)
指定年月日: 平成4(1992)年12月18日
平良市街の東北に位置する泉(洞井)である。『雍(よう)正旧記(せいきゅうき)』に(1727年)記されている内容から、1720年ごろに掘られたと考えられている。井戸の周りは大小の切り石を円形に積み上げてあり、上り下りの通路には石段が設けられている。伝承によれば、首里王府派遣の在番役人など一部の者のみが使用し、一般の人々には開放されなかったといわれている。かつては泉に至るまでに2ヶ所の門があって、水守りもいたとの言い伝えがある。南島の人々と水とのかかわり合い、石工技術の見事さを示す石造遺跡として類例のないものである。
国指定重要文化財建造物 豊見親墓・3基
指定年月日: 平成5(1993)年4月20日
豊見親墓はみっつの墓から構成されている。一つは「仲宗根豊見親の墓」で、15世紀から16世紀にかけて宮古の首長を務めた忠導氏一門が祀(まつ)られている。ふたつは「知利真良豊見親の墓」で、仲宗根豊見親の三男で宮(みや)金(がね)氏(うじ)一門(いちもん)の墓、子孫の寛富が1750年頃造ったと伝えられている。みっつは、「アトンマ墓」で忠導氏の継室(けいしつ)が祀られている。
これらの墓の特徴は、墓の入口正面に「つんぷん」(ひんぷん)があることと、墓室の上部に、短い石柱が立ち並んでいることである。石柱の上端には凹状の欠きこみ部があり、祭祀(さいし)のときは、凹みの部分に桁木をのせ、梁をかけ、屋根を覆うことができる。このような独特な構造の墓は県内他の地域ではみられず、貴重なものである。
国指定重要無形民俗 宮古島のパーントゥ
指定年月日: 平成5(1993)年12月13日
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平良地区島尻のパーントゥ・サトゥプナハ(里願い)は年3回(旧暦3月末~4月初、旧暦5月末~6月初、旧暦9月初)行われるが、3回目には、面をつけた来訪神のパーントゥが出現することから、パーントゥプナハともいっている。
来訪神は3体で、全身に蔓草(つるくさ)のシイノキカズラをまとって、泥を塗り、5人の女性神役(ミズマイ)にウパッタヌシバラ(拝所)で祈願をしてから集落に出て厄払いをする。 - 上野地区野原のパーントゥ 旧暦12月最後の丑(うし)の日に行われる。土地ではサティパライ(里祓(さとばら)い)ともいっている。男女で構成し、女達は頭や腰にクロツグとセンニンソウを巻き、両手にヤブニッケイの小枝を持つ。男の子の1人はパーントゥの面を着け、他のものは小太鼓とほら貝で囃す。夕方祈願のあと集落内の所定の道を練り歩き厄払いをする。(保持団体:島尻自治会、野原部落会)
国指定天然記念物(地質・名勝) 下地島の通り池
指定年月日: 平成18(2006)年7月28日
通り池は、2つの池が相接し、天然の橋によって通じている。東北側が直径約55mで水深約約25m、南西側が直径約75mで水深約25mあり、直径約10mの洞穴で海と通じており、両池は潮の干満で水深が変化する。その成因は琉球石灰岩が長年の間に海と通ずる鍾乳洞を生じ、その2ヵ所が崩落して天然橋で結ばれる形となったと考えられている。本池には、昔、漁夫が海の霊を釣り上げ、その罰として津波におそわれ、漁夫とその母子の屋敷跡が陥没して池になったという言伝えや、継子と間違えて実子を池に突き落としたという伝説もある。名勝地としても知られ、青々と海水をたたえたその神秘的な景観は全国的にも珍しく、また石灰岩特有のカルスト地形、環境に適応した海岸植物群落は自然のすばらしさを教えてくれる。
国指定名勝 東平安名崎
指定年月日: 平成18(2006)年11月17日
宮古島の東端に細長く突き出た全長約2km、幅120m~250mの岬で、琉球石灰岩のカルスト地形に固有の海岸性植物群落が展開する独特の自然環境とともに、特有の伝承を持つ美しい景勝地として知られる。
周囲を琉球石灰岩の海食崖に囲まれ、標高約20mの平坦な上面は全体として海側に向かって迫り出し、海食崖の随所に凹地形が形成されている。上面には琉球石灰岩の岩塊が散在し、特に岬の先端部周辺には「津波石」と名付けられた径約6~8mにも及ぶ岩塊、さらに東方海域の離礁上にも「パナリ」と呼ぶ巨大な岩塊が点在する。通年の強風により高木は育たず、亜熱帯地方の風衝地特有の植物群落が発達している。特にテンノウメ群落の分布面積は他に類例を見ないほど大規模である。
また、東平安名崎の優れた風致景観は、宮古島の按司と美しい娘との恋にまつわる悲しい伝承を生み、彼女の墓地とされる岩陰墓なども残っている。宮古島の風土的特色を代表する景勝地として、鑑賞上または学術上の価値は高い。
国指定史跡 先島諸島火番盛(遠見番所)
指定年月日: 平成19(2007)年3月23日
池間遠見番所
池間島南端の小高い丘陵上にあって、はるか東方には大神島が、南方には平良の街が望見できるところにある。この遠見は岩盤を利用して円柱状に造られ、登り降りするための石段が数段設けられている。この遠見には昭和25~26年頃まで、船の位置を確認するためのピーイイス(方位石・直径20cm、高さ55cm・円柱形)が設置されていた。琉球(沖縄)で各諸島に烽火が始められたのは尚賢王時代(1644年)である。伝承によれば、この遠見には庶民からなる遠見番が輪番で任務に就き、沖縄本島を往還する上国船の航行を見守るとともに、近海を通過する船、異国船、漂流船の発見・監視等にあたったといわれている。そして、海上に船影を発見すると昼間は烽火(のろし)をあげ、夜間にはたいまつをかざして蔵元へ合図を送ったということである。
また、遠見の北東方に見えるスタテイ嶺にはスタテイ番(庶民の輪番制で2人に割り当てられたという)が夜どおし火をたいて近海を通過する船の航海安全に備えたと言われている。
このスタテイに関しては「ウヤキマーズミガ」の歌謡も残っている。
狩俣遠見番所
狩俣集落後方の丘陵上にあって、方位を刻した円柱形のピャイイス(方位石)が設置されている。そこは明治の末頃まで「遠見番屋」(壁・石積・屋根瓦・約3坪)が遺されていた。この遠見は主として沖縄本島を往還する上国船、漂流船の発見・監視など、広く海上警備の役割を果たしていた。
伝承によれば、この遠見には遠見番が日夜、交替で海上の監視にあたり、船影を発見すると、すぐさまブンミャー(村番所)の役人に連絡をとったという。ブンミャーにはソーカツ(総聞)、ユーサズ等の役人が詰めていて、船影発見の連絡を受けると急ぎ、集落の庶民をピャーツカイ(伝令)として蔵元へ走らせたと言われている。
島尻遠見番所
島尻遠見台は島尻集落北東部の丘陵上にあり、方位を刻した針石(方位石)が設置されている。この遠見台には数名の遠見番が交代で任務に就き、近海を通過する上国船や進貢船、異国船の位置を蔵元へ報告したと言われている。
来間遠見番所
琉球石灰岩を3mほど積み上げて造られ、方位を示す石も備えられている。今時大戦で日本陸軍により更に補強され現在の形となった。
昔は、ここに見張り番がいて、対岸の与那覇前浜に役人が待機している姿を確認したら直ちに村番所に急報し早舟を出して迎えに出ることになっていた。
砂川遠見番所
城辺字砂川の上比屋山(森)の南端に所在し、方形状の切石積みで、北向きの出入口に階段を設けた、東西約7m×南北約4.5m、東壁の高さ1m余りの規模で、上面観が方形状をなした琉球石灰岩切石積みの遺構である。遠見台からは太平洋が一望でき、眼下には砂川元島(砂川村跡)、友利元島(友利村跡)遺跡が形成されている。
国選択無形民俗文化財 宮古のクイチャー
選択年月日: 平成14(2002)年2月12日
宮古のクイチャーは、宮古諸島各地に伝承されている集団の踊りである。豊年祭や雨乞い等の機会に、また、随時娯楽として、集落ごとに生き生きと踊られてきた。
クイチャーは、通常野外で男女が輪になって歌い踊るものである。皆で声を合わせて歌いながら、円陣をつくり両手を前後左右に振り、大地を踏みしめ跳びはねる動作を繰り返し、合間に手拍子を打つ。歌は豊穣を祈る歌、雨乞いの歌、恋人への思いを込めた歌、生活や労働の喜び、苦しみなどを歌った歌など多様な内容を示している。
宮古のクイチャーは、人びとの生活や信仰に深く結びついて伝承されていて、芸能の本来のあり方をうかがわせ、踊りや歌は他に類例がなく地域的特色を示している。
国選定無形文化財(保存技術) 苧麻糸手績み
選定年月日: 平成15(2003)年7月10日
苧麻糸手績みは、苧麻(からむし・イラクサ科の多年草・ブーともいう)の繊維を手績み(繋(つな)ぐことの意)して糸を製作する技術である。苧麻糸は、宮古上布等の織物の主要な原材料である。茎の表皮から繊維をとって細く裂き手で績み長い糸を作る。緯(よこ)糸(いと)は、細く裂いた繊維の根元と先端とを撚(よ)り合わせて結び目を作らずに繋ぐ。経糸(たていと)は細く裂いた2本の繊維を撚り繋ぐ。宮古・八重山諸島では、糸績み技術者の多くが自ら苧麻を栽培し、糸を作製するまでの一貫した工程を手がけてきたが、高齢化が著しく、現在約120名の技術者がいる 宮古では70歳以上が大半を占め、将来が危ぶまれる。
苧麻糸の手績みは、重要無形文化財「宮古上布」等の沖縄の染織技術の保存・伝承に欠くことのできない技術であり、宮古苧麻績み保存会が認定を受けて、技術の伝承者養成活動を実施している。
国選定無形民俗 野原のマストリャー
選定年月日: 昭和55(1980)年12月12日
旧暦8月15日に、上野地区野原で行われる豊年祭である。午前中、大グスク内の拝所で婦人が祈願し、夕方には、4箇所のマスムトゥ(貢租を集めた場所)で、酒・肴を囲んで男たちが直会をする。公民館の広場では、青年男子による棒術4組と、婦人の踊りが演じられる。婦人の踊りは数列縦隊になり、前列はくば扇、後列はよっつ竹をもって(抱き踊り)と(投げ踊り)で構成されている。最後に巻踊りとクイチャーを踊る。「マストリャーはじめの歌」にこの踊りはふつうの踊りではない、地頭主(役職名)の許しを受けて踊るのだ、という意味の歌詞があることから、苦渋に満ちた人頭税時代の面影を反映しているのがわかる。宮古諸島の芸能の中では特異な民俗芸能である。
国登録建造物 大野越排水溝(トンネル)
登録年月日: 平成19(2007)年3月16日
宮古島市の大野山林に位置し、昭和9年に建設された隧道である。この地域は低湿地の広がる土地であったため、水はけが悪く、常に湿潤な土地であった。国は、農業上の土地の利用増進を図る目的で、大野山耕地整理計画を策定し、その事業のひとつとして、大野越排水溝が建設された。
構造は、アーチ型の鉄筋コンクリート造で、延長640m、高さ約1.7m、幅約1.8mの規模である。保存状態は比較的良好であり、現在も排水トンネルとして機能している。
以上のとおり「大野越排水溝」は昭和初期の隧道としては、規模が大きく、建設当時の技術的水準の高さおよび歴史的背景を反映する建造物として貴重である。