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古文書・歴史資料・典籍
市指定古文書・典籍 刀剣および古文書
指定年月日: 昭和51(1976)年3月18日
宮古島旧記によると、豊見氏親(うずぬしゅう)の由来について、次の通り記録されています。
昔、伊良部村の主「豊見氏親」という人は、力万人にすぐれ、鬼神もあざむくぼどの勇者であったが、その頃、平良と伊良部の海中に大鱶(ふか)が時々現れ、往来の船を転覆させ、命を奪っていたので、平良へ行く人達はこれを恐れ、交通、商売の道が閉ざされ、島の人達は貧困にあえいでいた。
「豊見氏親」は悩み、命を捨ててでも万人の苦しみを救おうと決意、日を定めて天に祈り、「我、万人のために百年の命を絶つ、願わくば神明の御加護によりて、かの悪魚を退治せしめ給(たま)えて十方を伏(ふ)し拝(おが)み、先祖重代の刀を抜き持ちて退治せん。」として、ただ一人小舟に乗って沖へ漕ぎだし、大鱶(ふか)に向かっていった。
大鱶は、船もろとも 「豊見氏親」を呑み込んでしまいました。
大鱶は死に、その日の夕方、「豊見氏親」は比屋地の浜に打ち上げられました。
村人は泣く泣く、比屋地山に「豊見氏親」を葬り、比屋地御嶽の脇神としました。
市指定古文書 河充家の系図
指定年月日: 昭和55(1980)年1月10日
河充氏とは、川満大殿主の家系である。
保管しているのは洲鎌部落の松村家であり、大殿の子孫である。系図には初代より10代までの人物の生年月日、役職名、死亡年月日等が記入されており字体も楷書、草書、正書と種々である。筆跡も異なる部分が見受けられるのは何代目かが書き残した物を後でまとめたのか、それともその人その人の手で綴り残したものか興味がある。親雲上(ペーチン)、目差、与人等の役職名や女性の大阿母等も他の文献にも見られ大殿主の子孫が次々と上役職につき活躍したことがうかがえて貴重な古文書といえよう。
(注) 大阿母(おおあも): 琉球王国の三平(みひら)等の大あむしられ中央神女。組織制における上級神女。
市指定歴史資料 忠導氏仲宗根家関係資料
指定年月日: 昭和56(1981)年10月21日
仲宗根豊見親を祖とする忠導氏は、旧藩時代には白川氏とともに宮古を二分するほどに勢力をふるった旧家である。仲宗根豊見親は与那覇原との戦いに勝って宮古を統一した目黒盛豊見親の玄孫で、白川氏三代目大立大殿にかわって宮古主長になった人物だと伝えられている。「球陽」によれば、1500年、仲宗根豊見親は八重山のオヤケアカハチを討つ中山軍の先導をした功績により宮古の頭職に、また、夫人宇津免嘉は初代大安母に任命されたと記されている。
その後、忠導氏とその支流(三男・知利真良豊見親を祖とする宮金氏、妾腹の子・金志川那喜大知豊見親を祖とする仲立氏)一門からは、多くの頭職(平良、砂川、下地)をはじめ首里大屋子、与人など、この島の中枢に位置する数少ない要職をつとめる者がでた。忠導氏正統仲宗根家の位置する地域の里名は外間(ぷかま)で、同家を大外間(うぷぷかま)と称していた。
なお、同家に所蔵されている数十点の文書、史、資料類の多くは18世紀ごろのものであるが、なかには16世紀にさかのぼるものもあり、代々、当主が引き継いできたものである。同氏の勢力の推移および宮古の歴史の流れを解明するうえで重要な文化財である。
市指定歴史資料 向裔氏本村家関係資料
指定年月日: 昭和61(1986)年3月26日
名乗り頭に「朝」の字をもつ系統は、宮古では「向裔氏」と呼ばれ、沖縄本島の向姓の流れをくむものである。いくつかの系統があるが、今、出自の明らかなのはふたつの系統のみである。
一つは、浦添親方朝師と多良間の土原氏・計志真良との間に生まれた子・朝裔を祖とする屋号「多良間」の系統。もう一つは、北谷里之子朝乗(のち内間親方)と洲鎌村百姓の女・比良寿との間に生まれた子・朝忠を祖とする屋号「前比屋」系統である。
朝裔は順治4(1647)年に下地之頭、朝忠は雍正7(1729)年に平良之頭を勤めた人物である。
向裔氏本村家は「前比屋」系統からの出で、朝忠の子朝宜の三男・朝副を祖とし、屋号を「ウプンターラ」と称している。朝副は荷川取与人、西仲宗根与人、伊良部首里大屋子等の要職に就いた人物で、この「ウプンターラ」系統からは、朝副の孫朝祥が咸豊元(1851)年に下地之頭、朝祥の曾孫朝亮が大正8(1919)年に平良村長を勤めている。朝祥は「割重穀事件」(1848年)や「讒書事件」(1860年)に関わった人物であり、朝亮は宮古の歴史研究家として知られている人物である。
同家に所蔵されている史・資料は朝祥・朝亮にかかわるものが大半である。時代としては19世紀以降の資料であるが、同家の勢力の推移および旧藩末期以降の世相知る上で貴重な歴史資料である。
市指定典籍 本村家「報本」碑
指定年月日: 昭和53(1978)年3月6日
この「報本」碑の書は尚泰王時代の三司官向有恒(宜湾親方朝保)が一門(向裔氏)である下地頭職向朝祥(本村朝祥・在任1851~76年)に贈ったものである。この碑がどこで造られ、どこで彫刻されたか明らかでない。碑は直方体の石材を用い、右上より「同治甲子仲冬穀旦、向朝祥敬建、報本、向有恒書」の文字が刻み込まれている。
「報本」とは「本に報いる」の意であるが、報いる対象が向裔氏の本家だったのか、それとも王府に対するものだったのか定かでない。
旧藩末期、宮古においては上下をゆさぶる「割重殻事件」(1848年)や「讒書事件」(1860年)等がおきた。「割重殻事件」とは10数ヵ村の役人が私腹を肥やすため人頭税を割重みした事件であり、「讒書事件」とは王府の施政を非難した薩摩藩への訴状が王府に知れ、そのため20数名の有識者が拷問を受けた事件である。「割重殻事件」で朝祥は取り調べ側、「讒書事件」では容疑者の一人として事件にかかわっている。
この「報本」碑は上記の事件等に直接関係はないとおもわれるが見る人に廃藩前夜の宮古の世情を想起させてくれる貴重な金石文である。
市指定典籍 恩河里之子親雲上の墓碑(おんがわさとぬしぺーちんのぼひ〕 )
指定年月日: 昭和55(1980)年1月29日
旧藩末期に建造されたもので現存する墓碑では比較的古いものである。砂岩(高さ62cm、横33cm、幅上部5~14cm、下方17cm)を材料として使用している。
碑には右肩より「支流長真氏恩河仁也、乾隆年間卒。向姓恩河里之子親雲上墓、同治十一年壬申在番同氏花城親雲上記」の文字が刻み込まれており、下方には蓮弁の絵模様が描かれている。墓碑には、蓮弁のほかに日輪や唐草等の絵模様がよく用いられている。
この碑の書を記した花城親雲上は同治11(1872)年に首里王府から派遣された在番で同治13(1874)年の2月14日に病のため没した人物である。彼の任期中には、平良頭忠導氏玄安ら54名の「台湾遭害事件」や「ドイツ商船ロベルトソン号宮国沖遭難」などの事件がおきている。また、「琉球国が琉球藩」となったのも、彼の任期中のことである。
この墓碑は、これらの事件と直接かかわりはないが、花城親雲上が在番として宮古島に赴任してきたことの証拠であり、旧藩末期におきた事件等を彷彿とさせる貴重な金石文である。
市指定典籍 産業界之恩人記念碑
指定年月日: 昭和56(1981)年1月29日
大正14年7月に宮古神社が建立された際、宮古の産業界の基礎をつくった下地親雲上恵根、砂川親雲上旨屋、稲石刀自の三者を顕彰して、同境内に建立したものである。
碑の形状は縦264cm、横63cm、幅27cmの直方体でコンクリート造りである。碑文は当時、沖縄史研究者として知られた真境名安興がまとめたものである。表には「産業界之恩人・下地親雲上恵根、砂川親雲上旨屋、稲石刀自・記念碑」「沖縄県知事正五位勲四等亀井光政書」の文字が記されている。
下地恵根は、1655(順治12)年に上国の帰途、松苗数本を持ち帰り大武山・島尻後に試植、更に1681(康熙20)年には2000本を洲鎌村に植え造林の端緒を開いた。砂川旨屋は1594(万暦22)年、御物宰領で上国の帰途中国に漂着、3年後、帰国にさいし芋かづらを持ち帰り、栽培普及した。また、稲石は1583(万暦11)年、綾錆布を創製して琉球国王に献上、宮古上布織製の端を開いた人物である。
碑文の内容は、上記三者の業績をたたえるとともに、今日の宮古産業界の発展は彼等の恩恵によるものとし、これを顕彰することで今日および後世の人々に、報恩報国の道を教示しようとしたものである。
この碑は、当時の宮古郡民の動向を知る上でも貴重な金石文である。