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建造物
市指定有形文化財(建造物) 「久松みゃーか(巨石墓群)」
指定年月日: 昭和49(1974)年8月29日
みゃーかは、久貝、松原両字にまたがって、かつては多数あったと推定されるが、現在確認できるのは4基である。みゃーかについて久松では古くから“ぶさぎ”とよびならわしている。稲(いな)村賢敷(むらけんぷ)、金子エリカ両氏の研究報告があり、創建は14~16世紀ごろと推定される。稲村説「宮古在来の風葬(ふうそう)墓地(ぼち)で、15世紀末ごろまで巨大なものへと発達、その後沖縄本島の影響をうけて横穴式へ移行」、金子説「1360年ごろから元・明動乱をさけて、優秀な技術をもって大陸から渡来した一群の人々によってつくられた」などである。
久貝ぶさぎは、仲宗根豊見親の夫人宇津免(うつめ)嘉(が)の父安嘉宇立親の墓と言い伝えている。仲宗根豊見親のころに宮古の石造建築物はいちじるしく発達したとみられるだけに、久松みゃーか群は、宮古の先史時代を解明していく上で重要なカギを秘めているものと考察される。
市指定建造物 西ツガ墓
指定年月日: 昭和52(2977)年3月16日
益茂氏一門の墓は、東西ふたつ並列しており、いずれも“ツガ墓”と俗称されている。ツガとは升の意で、ツガ墓とは升のように真四角という意でも語られているが、他方多くの人夫をやとい、石一升掘るのに粟一升をようしたということでツガ墓というとの伝承もある。岩盤を掘りおろしてつくられており、アーチ門と周囲に空堀をめぐらしているのが特徴である。一般に墓地の屋根付き通用門は、石垣を積み上げて、上部に一枚岩をのせて通路にしているが、このように岩盤を掘りおろした上に、さらに正面の岩盤を掘りぬいて墓庭への往来に供した門は稀である。また周囲に掘りめぐらした例は、宮古では他に類をみない。
伝承によるとツガ墓は、はじめ西の方だけで、巨費を投じて建造していたが、完成まじかになって牛の死体が捨てられていたために、これをきらい、さらに東に同様規模の墓をつくったという。完成当初から双方ともに使用したのかは定かではないが、いつのころからか東西ともに使用されている。東の方はさきの世界大戦で米軍機の爆撃をうけてかなり損壊しているが、西の方はいまなおみごとな様式美を誇っている。
なお益茂氏一門(族字は昌)は首里からの流刑人の子孫といわれているが1685(康熙24)年、砂川ノ頭昌信を出して以来6人の頭職を出しており、宮古ではかなりの勢力をほこった系統である。建造にようした石一升粟一升というのは、あながち伝説とばかりもいえないものがあろう。
市指定建造物 平良第一小学校の正門と石垣
指定年月日: 平成11(1999)年8月20日
平良第一小学校の石垣は、昭和7年頃に築かれた石垣と考えられており、建築後70年以上経過している。現在、学校の敷地を囲っていた石垣のうち南側は校地拡張の為に無くなっているが、当時の正門を含む3辺の石垣は保存状態もよく残っており間知積みや布積み等、当時の石造建築技術の水準の高さを知ることができる。
先の大戦で、当該地も空襲、艦砲射撃などの戦火に見舞われ校舎などは失われたが、石垣やガジュマル等の植栽は当時の景観を今日に伝え、教育環境としても望ましい状況にある。
学校(教育史)の歴史を21世紀に伝える県内でも数少ない文化財であり、その価値は高い。
現在、学校の敷地を囲っていた石垣のうち南側は校地拡張の為に無くなっているが、北側、西側、東側の3辺の石垣の保存状態並びにガジュマルなどの植栽は、教育環境をよく保存している。
当時の正門は、現在は利用されておらず、東保育所の塀となっている。
市指定有形(建造物) 「瑞福隧道(ずいふくずいどう)」
指定年月日: 平成14(2002)年5月8日
戦前、比嘉下(すた)の(ぬ)島(すま)、池原底(いけばるずぅく)、福地(ふくち)原(ばる)、加治(かじ)道(どう)一帯は湿地帯で、大雨のたびに大きな水溜まりとなった。特に池原一帯は湖のように2,3ヶ月も水が溜まり、農作物に甚大な被害を与えた。地勢は海岸地帯が高く排水路による水はけは不可能視されていた。
当時の瑞慶覧(ずけらん)朝(ちょう)牛(ぎゅう)城辺村長は地主400名余を募り比嘉長間耕地整理組合を組織して大々的な排水工事に着手した。排水溝約7000m、隧道約1000m、放水路約600mの大工事で、1933(昭和8)年着工し、1937年竣工した。隧道はコンクリート、高さ2.45m、中央幅2.70m、下の幅2.45mの規模である。瑞慶覧村長の功績を永く称えるために瑞の一文字をとって「瑞福隧道」と名づけられた。
市指定建造物 「下地家の墓」
指定年月日平成16(2004)年4月15日
下地家の墓は、岩盤を掘り込んだ墓室と墓庭を持ち、前庭から墓庭に通ずる門を縦長に掘り抜いて造られており、墓室面の高さは、3.9メートルと高く、屋根の両側に大型の切石を高く配置している。
墓庭は、約10メートル方形に掘り込んで築造、袖の上部分には切石を積んで成形されている。前庭部は、6メートル×10メートルの規模で築造されていたが、新設道路建設の際に、最前部の一部が失われている。
墓室内は未調査ではあるが、石造技術の高さや岩盤を掘り込む為に相当な労力を費やしたと考えられ、宮古地域の墓の変遷を知る上でも貴重な文化財である。